![]() 「今月もしぶう、こぶう暮らします」と、引き締めた心の表れか、おついたちには、"にしんこぶ"を食べ、末広がりの八のつく日は、「荒い芽が出ますように」と、縁起を担いで"アラメ"を炊き、銭箱も空になる際の日には、「もう、おカラ!」などとユーモアを込めてオカラを食べる。「始末」と「堪忍」を何より重んじ簡素で合理的であることを旨とした京都の人たち。こんなつつましい暮らしぶりもいまでは次第に姿を消しつつあります。それでも、京都の津々浦々には、簡素と豊かさが矛盾することなく混在し、贅沢でなくても豊かな暮らしを楽しむ工夫が今も生きてつながれているのです。「見立て」と呼ばれる生活の工夫もそのひとつ。見立てとは、ある物を別の物に置き換えて代用することですが、たとえば、千利休が、もとは雑器であった楽茶碗を茶の眼目と呼ばれるメインの道具に使ったのも当意即妙の見立ての心。すなわち、なにものにもとらわれないフレキシブルな心と美意識がつくる自由奔放な選択と振る舞いなのです。つい、物にとらわれがちな私たちの、学びたい暮らしの伝統です。 【戻る】 |
![]() 人が心と心を通わせることを自国の呼び名である「和」と表現する私たち日本人は、ものとものの、その美しさや機能や意味が調和を以て融合することもまた「和」と呼びます。「和」とは、人にあっては、穏やかで仲良きこと。ものにあっては、その調和の形が過不足なく宜しきこと。そして自然の事象風景にあっては、のどかでたおやかであること。人の社会にあっては、平らぎ、温か。万物すべての混合と融合こそ、最も尊いする日本人の自然観や価値観は、暮らしや風景を彩るささやかなものたちにも、トータリティとしての「和」の意味づけを行います。茶室の床に飾る一輪の花。それは、室礼としては唯一有機的なものとして、生きた人間の心と心を混ぜ合わせ融合する手段として扱われます。さらに、室内という人工の空間と世界に外界のイメージを取り込み、自然と人、ものを調和させる最小限のメディアでもあります。"トータリティとしての価値"であるために、花も道具も、そして人も「過不足なき宜しき」美しさで、そこに在るのです。「和す」思想、それは日本人の美意識、自然観であるだけでなく、人間の思惑では計り知ることができない、まったく新しいものの価値をも生み出す力もまた備えているのです。 【戻る】 |
京都に都を置いた平安時代は、唐風文化から国風文化の土台を築いた時代であるとも言われいます。十二単衣に象徴されるあわせやかさねと呼ばれる手法の、美の演出がなされ、美しい風俗と文化を築きあげました。このあわせの文化は、色や形をあわせるだけでなく、季節や歌などのそれぞれのテーマがあり、そのテーマにあわせて色、形、柄などをあわせていくという徹底したあわせの妙を楽しみました。 この美意識と妙味を楽しむ心は、やがて遊びやゲームとして発展していきます。 歌あわせ、貝あわせ、かるたあわせなどがそれです。和歌などの“本歌どり”という手法も元の歌にあわせる思想が働いています。 「あわせあう」という遊び心の起源を探ると、もともとは神様を遊ばせることにあったようです。神を遊ばせ、神にあわせて共に楽しむという精神が、遊びの原型だったということです。神と人との関係は、次第に人間同士の主客の関係となり、主客をあわせその現場に調度品や料理をもあわせて遊ばせるようになり、これを「もてなす」と呼ぶようになったということです。 神様を遊ばせるという始源的な意味も、私たちの暮らしの中に「あそばせ」とか「あそばします」という敬語の中に残っています。今流行のコーディネイトというのとは少しニュアンスの違う、日本の“あわせ”の文化意識です。 【戻る】 |
「茶事は夜咄であがり候」。夜咄とは茶事七式のひとつ。 師走十二月にはじまり、翌三月まで随時催されます。 ゆらめく蝋燭に照らされた席は、風情もまた格別。 それだけにもっとも技巧を要する茶事とか。 師走はもうひとつ、ひとを慮る歳暮の時季でも。 先様の顔を思い浮かべながら、あれこれ品を選ぶこと。 客をあたたかくもてなすことを第一義とする夜咄の茶事のこころに通じるようにも思われます。 日々営々、味噌づくり一筋の弊舗にもそんな品選びの方々で賑わうこのごろございます。 この一年の感謝をこめて、京より今年も…。 【戻る】 |
![]() 「仕切る」つなぎながら区切るけじめの装置。 みだりに立ち入ってはならない領域をつくるとき、この国では厚い壁やドアで仕切るのはなく、踏み入ろうと思えばいつでも入れるようなあいまいな物で空間の領域を分けます。 「結界」と呼ばれる頼りなげな仕切りの装置。小石や竹、縄など、越えようと思えば容易に越えていけそうなものばかりです。それでも、私たちは寺などの庭に小さな関守石が置かれていれば、その先に歩を進めることを遠慮しますし、他家の衝立ての向こうをみだりに覗くようなことも礼を欠くと教えられました。仕切るというには、あまりにもあやういしつらえ「結界」。この仕切りの装置は、むしろそれを見た人、一人ひとりの心のけじめを促す抽象的な暗示。空間の意味を了解し、態度を決めるための標識のようなものなのかもしれません。仕切るというよりは、むしろ空間をつなぎながら、物ではなくあくまで心のなかにけじめを根づかせようとする日本的な精神性を感じます。物があやうく頼りなげであればあるほど、高邁な精神を促される、そんな美しい装置です。 【戻る】 |
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